そこに乗っていたのは怒りではなかった。ただ純粋に勝ちたいという気持ち。
明乃の鋭い眼光がそのまま突き刺さったかのようだった。
立ち上がった明乃の一撃に、怯んでいた常盤が吹き飛ぶ。衝撃で天井がまた少し崩れ、爆音となって辺りに轟いた。
純粋な驚きか、喜びかの判別がつかない。
ただひたすらに常盤社が思い浮かべるのは、たった一人の少女の退屈を映した瞳。
それから、その少女が歩むであろう道のすべてだ。
猫猫事件帖 そして少女は微笑する
最終話
「彰ちゃん」
差し伸べられた手に、困惑する。
彼女はどうしてここまで真っ直ぐでいられるのかと、問いかけたくなる。
何が彼女をそうさせたのか。どうしてこんなにも純粋でいられるのか。
黒堂 彰の思考は半ば停止していた。その手を取ったらどうなるのか、確かめたくて仕方がない好奇心もあった。しかし何故か取れずにいる。何故と問おうとすると、心の奥底が軋んで悲鳴を上げるような痛みが走る。
「……」
呆然とする少女を気にせず、木野宮は手を差し伸べ続けた。
しかしその手を切り裂くかのような轟音が響く。一同は反対側のホールに振り返った。音が耳に届いたのか、何人かの警備員が唸りながら起き上がろうとしている。
「まずいな」
壱川が呟く。東雲たちに何かあったのかもしれない。察して水守が走り出した。壱川もそれに続く。
宮山が木野宮を見ると、木野宮は力強く頷いてもう一度少女の方を見た。
「行こう!彰ちゃん!」
眩暈がするようであった。なんとか現実に自我を引き寄せて、少女は常盤に連絡を図る。見物に来ると言っていたから、いつも付けている通信機を耳に当てがう。しかし何も聞こえない。雑音すら拾えない。先ほどの音の中で、何かがあったのだろうと察することができた。何故だか胸騒ぎがする。こういう時に限って、勘というのは当たるものだ。
木野宮を見る。彼女の目は曇りなく、少女が手を取るのを待っていた。
選ばなければいけない。今。
少女はそれに気付かながら、静かに考える。何故その手を取れないのか。好奇心で取ってしまえばいい。つまらなければまた捨てればいい。そう思うのにとれないのは、あの男が頭の隅にいるからだろうか。
何故あの男が頭の隅にいるのだろう。制裁が怖い?いいやそんなことはない。それこそ受けて立ってもいいくらいだ。
何故。
何故。
少女は幾つもの思考を張り巡らせた。数ある要因を推測しては消していく。繰り返していくうちに、答えは嫌でも見えてくる。
考えるなと警鐘が鳴る。しかし考えるのをやめるわけにはいかない。ここで選ばなければいけないと、わかっているからだ。
そして少女はようやく気付く。漠然と思っていたことを思い浮かべると、腑に落ちてしまった。
ひとつひとつのことを思い返すうちに。ひとつひとつのことを考え直すうちに。
あの日、泣きそうになりながら常盤 社に縋った自分の感情に、嘘をつけない。
あの時、祈りに似た形で彼に憧れたその気持ちを、捨てきれていない。
それは、かけがえのない思い出のようで、しかし今も尚少女がここに居る理由。少女がマントを纏い、探偵に立ちはだかる理由。止まれずにはいられない原因でもあり、暗がりに引きずり込まれた要因でもある。
彼は最初から遠かった。並べてなどいなかった。今も、彼に追いつく事はできていないだろう。彼が見ている世界と、自分が見ている世界は程遠いのだろう。
しかし追いつく事を諦めたのは、他の誰でもない少女自身であったのではないか。彼の安否が気になってしまうのは、彼にまだ期待を寄せているからではないか。
少女は気付いた。諦めていたことに。受け入れていなかったことに。自分が如何に小さい人間であったかということに。
気付ければ話は早い。受け入れればいいだけの話なのだから。しかし少女は下手くそな笑みしか浮かべられなかった。木野宮のようになりたくないと言えば嘘になる。彼女のように、普通の幸せを感じて生きてみたかった自分もいた。ただ普通に生きていけたらと、何も知らずにいられたらと思っている自分もいた。
だけどそうじゃないだろう。目指した場所には、まだ全然届いてなんていないのに。
少女は木野宮の手を払いのけた。木野宮がぽかんとしているうちに、彼女の内なる熱が蘇ったかのように感じる。
「ごめんね」
そこにあるのは、穏やかな微笑みだった。張り付けたような笑みでも、取り繕ったような顔でもない。
「ありがとう。本当に、嬉しかったよ」
そう言って少女はマントを翻す。途端に姿が消えたのを見て宮山は口を開けるしかなかった。しかしすぐに思考が戻り木野宮を呼べば、彼女もまた続いて走り出した。
そこに、輝くダイヤのネックレスを残して。
***
瓦礫から這い上がりながら、常盤はやはり服に付着した埃を払った。
そもそも天井に小さな穴を開けるだけのつもりだったというのに、思いの外爆発が大きかったことが遺憾だ。あの小型爆弾を作る時に考え事をしていたからだろうか。それとも運命の悪戯という奴なのか。わざとらしく溜息を吐きながら立ち上がると、少し離れた場所から人の気配がした。
あの怪盗たちが追ってきているのだろう。騒ぎに気付いて人が集まってくるのも時間の問題だ。
冷静に状況を把握しながらも、明乃の一撃をまともに受けた体に相当な痛みが走る。しかしやはり致命傷が避けられているのは、あの怪盗の教えからであろうか。
よろめく体をなんとか動かしながら、常盤は思う。
彼女は選択できたのだろうか。
今度は自分で、自分の道を。きちんと欲しいものがわかっただろうか。それとも、まだわからずにいるだろうか。
どっちでも良かった。興味がない、という意味ではない。人が選択をしたのなら、それを否定する権利など誰も持ち合わせていないと考えているからだ。
だからこそルールがいる。何もかもを尊重していては、全てが崩壊するからだ。
「ついてませんね」
呟きながら、遠くに聞こえるパトカーのサイレンに目を細める。まさかここで捕まるようなヘマはしないつもりだが、それが至難の業であることも理解できる。
こんな時に、彼らのように相棒という存在がいれば楽なのだろうか。怪盗団の人間は皆自分にとっての仲間だ。いや、秩序を守っているのなら世の怪盗全てがそうだと言ってもいい。だが彼らはそれとは違った形の絆を築いているようにも思う。
常盤が再びよろめく。意識はハッキリしているのに、体が言う事を聞かないのだ。ここで倒れてはいけない。そんな事はわかっているのに、地面が近付いていく。
しかし、体と地面がぶつかる事はなかった。視界に映る鮮烈な赤は、あの日に渡した指輪に嵌められた宝石と同じ色だ。どうしてこのマントの裏側を赤色に染めたのかは忘れたが、しかしその色を見るとあの夜を思い出す。常盤は微笑んだ。
「愚かな選択だ。だけど貴女は選んだのですね」
彼の肩を支えながら、少女は真っ直ぐに前を向いていた。まるで出会った日のような瞳を携えて。
「最初から選んでたよ。……最初から選んでた。私は貴方についていく」
あの日に、確かに救われたから。まだ、この先が見たいから。言わずとも、少女、黒堂 彰の目はそう語っていた。
彼女は不敵にも笑う。いつも通り挑発的で、いつも通りどこか子供っぽい笑みだ。
「ねえ、こんなものじゃないんでしょ?もっと見せてよ、いろんなもの。……社さん」
これもまた、ひとつの選択なら受け入れよう。そう思って、常盤 社は目を瞑る。
「勿論ですよ。世界は貴女が思うより、ずっと面白いものだ」
そうして二人の怪盗は、誰にも知られず夜闇に消えて行った。
***
「……まあ、なんだ」
不器用にも宮山は木野宮の頭に手を置いてみた。撫でるまではしてやらなくてもいいだろうと思う。
しかしこの状況、非常に簡潔に述べるなら、木野宮は友達になろう!という誘いを断られた可哀想な子とも取れる。木野宮は阿呆だから、そう思ってる可能性も十分ある。
何か言ってやらねば。思いながらも友達が少ない宮山にとって、こんな状況はあり得ない。故に、なんと言えばいいのかわからずにいる。
「……いつか友達になれるさ」
下手くそか。自分でもツッコミを入れてしまうくらいには下手くそだ。宮山は勝手に落ち込みながら、木野宮の顔を覗き見てみる。
彼女はいつも通りだった。子供っぽくて、明るい笑顔が満開だ。
宮山は一安心しながらも、肩の力を抜いた。
「もう友達だよ」
木野宮が言う。ああ、成る程そういうことか。妙に納得して、帰路に着くことを促す。事情聴取されたいと喚く木野宮を無理矢理連れながら、早く靴を脱いでソファに寝転がりたいと願った。
事情聴取なら、本職の刑事さんがやってくれるさ。だから今は帰って、好きなものでも食べようか。
宮山が言うと、木野宮のカツ丼!と言う声が夜の街に響き渡った。
***
「はい!宵一さん、あーん!」
「自分で食えるっつーの!ていうかなんでゴリラの形なんだよ!食いづれえわ!ていうか器用だなお前!」
「練習したからね!あ!マヌルネコも作れるよう!」
「作らなくていい!」
とある街のとある病院、とある一室にて。
事件に巻き込まれた一般人として壱川によって処理された東雲は、現在入院中である。
自室だけは触るなと何度も明乃に言い聞かせているが、明乃のことだからこれを機にぴかぴかに掃除していることだろう。早く帰りたくて仕方がない。
意識を失ってから回復するまでは明乃が泣きっぱなしで大変だったと壱川と水守からの報告を受けているから、後で二人に面倒を見てくれた礼もしなければならないだろう。試作機でもやるか、と考えながら東雲は真っ二つになったゴリラ型に剥かれたリンゴを頬張った。
「結局逃げられるしよ。ついてねえなあ」
「でも宵一さんが無事で私は良かったよ!えへへ、帰ったらお肉パーティしようね」
穏やかに笑う明乃を見ながら、東雲は考える。
結局何も片付いてなどいないじゃないか。あの男は何者なのか、これからも狙われ続けるのか。考えなければいけないことは山ほどある。
しかし今は、こうして日常に帰っておこう。また来るべき日に備えて、今度は何を開発しようかと思いながら、東雲は林檎をもう一度頬張った。
***
「で、結局何にも解決してないわけなんだけど」
「まあ、そうなるねえ」
「結局何にも!解決してないわけなんだけど!」
机を叩く水守を宥めながら、壱川は手に持った缶ビールを口にした。机と椅子、テレビ。他に目立つものが置かれていない殺風景なリビングで、二人は酒を飲んでいる真っ最中である。
「事情聴取長いし!ていうかアタシなんにもしてないし!呼ばれた意味がわかんないし!あーもうこんなことなら家で映画観てれば良かった!」
項垂れながら、空になった缶を指先で弾く。壱川はその様子を眺めながら、席を立って冷蔵庫へと向かった。
「ていうか何で急にアンタの家なのよ。今まで一回も上げなかった癖に」
「いやあ、なんとなく?」
「なんとなくって何よ!だったらうちでいいでしょ!どんだけ殺風景な部屋なのよ!」
酔っ払えば酔っ払うほど激しくなる水守をよそに、コップに水を入れてやる。差し出せば素直に飲み干して、また机に項垂れる。
「うーん、なんていうかな、ほら、俺にとっての……表明?」
「何それ、意味わかんない……」
眠気に襲われ始めたのか、水守の目がゆっくり閉じていく。そういえばうちには横になれるソファもないのだったと思い付いて、今度の休日は共に家具屋にでも行こうかと考えた。
「見られたくなかったんだよ。俺は何にも持ってない空っぽな人間だっていうのを」
だけど今は違うだろう。その言葉が水守の耳に届いているかはわからない。多分、起きたら全部忘れているだろう。
「お疲れ様」
呟いて、水守をベッドに運んだ後自分はどこで寝ようかと考える。このままにしておいても、一緒に寝ても、床で寝ていたって起きたらきっと怒られるんだろう。
そんな朝を想像しながら、壱川はまた缶ビールに手を掛けた。
***
暗がりに紛れて、少女は憂いていた。
憂うべきは先の見えない未来でも、どうしようもなく縋り付いてくる過去でもない。それはただ、敗北という二文字に満たされただけのこの現状だ。黒堂 彰は嘆いていた。
「テスト、クリアできなかった」
淡々と、少女は告げる。あのネックレスは今もあのホールで輝きを放っている事だろう。最後に取ってこれば良かったものを、そこまで考えが至らなかったのだ。
しばしの無言。何も言わない常盤を一瞥して、少女は痺れを切らしたかのように口を開く。
「全部わざとだったんでしょう。わざと私をあそこに立たせて、決断させようとした」
「さあ、どうでしょう。だけど私は、貴女の成長を楽しみにしている節がある」
やはり回りくどい話し方だ。眉をひそめながら、少女は続けた。
「私があそこで探偵さんたちを選んでいたらどうするつもりだったの?」
まあ、答えはわかっているけれど。ソファに座れば、常盤の淹れた紅茶の匂いがした。
「その時は、全力で立ち向かわせていただきますよ。それが貴女の選択ならば、それを受け入れるまでだった」
やけに爽やかな言い草だ。この男は嘘をつかない。だからこれも本当なのだろう。勿論、そう答えなければ怒りのあまり今すぐにでも裏切ったかもしれないが。
常盤はやはり微笑みながら、悠々と少女を見る。
「やはり人間はなにもかも予想通りというわけにはいかないのですね。私は無力だ。先を見通す力もなければ、貴女の背中を押すことすらままならない」
「……馬鹿じゃないの?」
少女はそう悪態をつきながらも、唇を尖らせて紅茶に口を付けた。
次に会うのはどこになるだろう。いったいどんな罠を仕掛けてやろう。小さな探偵の顔を思い浮かべながら、常盤の横顔を見る。
この男についてきたことを後悔などしていない自分を受け入れてしまった。ならば後は、この道を突き進むだけでいいのだろう。
なんて単純な話だ。道が見えているのなら、ただ歩いて行けばいい。
少しの間目を伏せて、それから悪戯な子供のような笑みを浮かべ少女は口を開く。
それは期待か、もしくは希望か。
「ねえ、次は何をしよっか」